AIと絵画

暫く前、AIがレンブラントの絵を描いたといってニュースになっていたが、自分はあまり驚かなかった。

The Next Rembrandtプロジェクト

だって、この時AIがやっているプロセスというのは絵を描く人が脳内でやっているプロセスに極めて近い。我々、多かれ少なかれAIのように描いている。持っている記憶や情報の参照や、所謂技能という形で内在化したプロセスと結果の組合せの安定的な出力などである。その点では、AI君(正しくは出力機器かもしれないがまあひっくるめて)が新作の描画に500時間もかかったと聞いて逆に少々微笑ましく思った位。このレンダリングの速度は、もしかしたらレンブラントの方が同じような絵を描いた方が速かったかもしれない。(時間という点ではキカイの方が今後どんどん速くなる可能性はあるけれど・・・。)

いずれにせよ、AIが何であれ人のやるアレコレをできるか否かというのは、便利になるようなことなら歓迎するものの自分にとって思弁的には殆ど興味がない事柄である。色んなことをAIはできるしやるようになる、でもだからこそ、キカイではなく自分(を含む人間というもの)がそれをやる、やっているということ自体の意味や価値があぶり出されてくるのである。

ちょっとややこしくかつ不適切な例えかもしれないけど、養殖うなぎが天然と見分けがつかなかったりおいしかったりすることはいくらでもある(うなぎを養殖する方々は天然の環境やらうなぎの天性やらを研究し、養殖事業に血道を上げているのだから)。でも、天然のうなぎ本体にとっては、養殖が自分よりおいしいとか速く育つとかはあまり関係なくて、他ならぬ天然の自分が天然の川をばんばん泳いでいることの方が、重要なのだ。

絵はAIで描ける。

のみならず多くの人間が描くより、客観的には余程質の高い、美的にも優れているものができる描ける可能性は高い(なぜなら人間のように不要な雑念が湧かないから)。人が描いたのかキカイが描いたのかの区別なんて、すぐつかなくなるし、もしかしたら今だってもうつかなくなってると思う。。

だから最後には、人が絵を描くとか、描いたのが人であるとか、そういう方向でしか、人にとっての価値は残らないはず。そしてその「価値」の意味や大きさは、人間自らが決定し、納得する必要があるのである。

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