安心中毒

世界的に有名なドイツの画家、gerhardrichter(ゲルハルト・リヒター)というツイッターのアカウントがあったのでのぞいてみたら、「我々は彼のチーム。彼自身は制作で忙しいので。」というようなことが書いてあって笑ってしまった。

ネットを介して情報を発信したり、入手したりというのは、どうしても基本的な必要性を超えて過剰になりやすい。

その理由は、自分の「行為」に対し、「反応」が明確だからというのが私の解釈。

何も自分の発信情報に対し具体的にコメントがくるとかこないとかいうことを言っているのではない。メールボックスを開ければ、新しいメールがたとえ入っていなくとも、メールが来ていたか、来ていなかったかは確実にわかるし、ツイッターで数十人以上フォローしていれば、1時間間があけば新しいツイートが入っているだろう。自分のブログのレポートのリンクをクリックするとユニークユーザー数やページビューの状況が必ずわかり、ある日突然、ユニークユーザー数が表示されるべき場所に、「今日はたぬきがウラジオストックで目玉焼きを焼いています。」と書かれているなどということは、ほぼ絶対にない。いわば養老孟司氏の言う、こうすればああなる ああすればこうなるの世界。

一方、現実の世界ときたら、この人は信用できる!と思っていた人がとんでもない人だったり、レストランを探して道に迷った先で目的としてた店の10倍いい店をみつけたり、10時間制作をがんばっても今一つ離陸しない日もあれば、風呂上がりに寝巻になって立ったまま5分で創ったものがいいできのこともある。不確実であることこの上ない。

だからネットというのは、コンテンツというより少なくともその「操作」と「レスポンス」ということにおいては、すべてが予定調和的なもので人を極めて「安心」させる。しかも何回も何回も何回も、その安心を無限に確認し続けることができるのである。

ネット中毒とはすなわち、一種の疑似的安心中毒なのだ。

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