色んなことを感じ、考える私のオリンピック

そういえばオリンピックの開会式やってるんだっけ・・どんな風かな、と思って昨夜11時頃にテレビをつけてみた。
その時橋本さんはやや臆した感じで紙を読みながらスピーチしていた。その後バッハさんが、終わるかと思えばまた続く、美辞麗句満載の長い空疎なスピーチをした。

演台の周りにはおそらく主として選手たちなのかもしれないがたくさんの人が立ちんぼになっていた。
人間は人間の表情や動作を読み取るのがすごく上手く、私もその例に漏れないので、彼らの動き、目線、表情の全てから、スピーチには少なくともほぼほぼ感動はしていないのがわかった(感動すると普通人はあまりもじもじと動かなくなる。視線はしっかりと、感動している対象に注がれる)。中学生ぐらいの時に、運動会で来賓の人の話が長々と終わらないのにイライラしたことが思い出された。

また、私は大学生の頃ホテルでバンケットをしていて、毎日のようにパーティーに参加していたんだけれど、その時気づいたのは海外の人は立食パーティーで決してと言っていいほど壁の周りに並んでいる椅子に座らないのだが、日本人は・・これはどうかな、アジア人まで広げてもそうかもしれない・・乾杯が終わったぐらいのタイミングであっという間に壁の椅子に殺到するのである。長寿を誇っているんだから健康に遜色がある訳じゃないんだけど、きっと足腰の構造や普段の生活習慣やなんかの関係で、立ってるのが苦手なんだろうと思っていた。だから、国はともかくアスリートの人々を夜遅く長い間立ちんぼにさせておくってどうなのかなっていう疑問が沸いた。強靭であるとはいえ非常に繊細なマネージメントを自分の体に対してしているはずだからである。

その後いろんな映像やらパフォーマンスみたいなのが続いた。日本のTVで見たことのあるような感じの場面展開が続く。速弾きのピアノの人と伝統芸能が哀しいかな水と油みたいになってるのも見た。その時に自分が思い出したのはいきなり美術のことで、なんだか大きい絵を描いたことがない人が無理に大作を描いてるような感じがしたのである(全編見てないので自分が見たときの印象だけで言っている)。

私はコラージュから制作を始めたため、作品は当初すごく小さかった。その後絵具を使って絵画をやるようになっても、A3ぐらいの作品を作るのにも最初えらく苦労したのを覚えている。
とにかく、スケールが違うことをやるというのは単に拡大するのとはまた別の難しさがあって、最初に大きい作品を描こうとする人がやりがちな行いというのが、小さいのはある程度マネージできると思ってるのでそれをつなげて大きくしようとすることで、その結果画面は単に分断され大きい動勢が作れずたたみいわし並みに強弱の薄い平板な感じになり、細かいところを見ればすべてが良くないとは言えないものの、全体としては生気のないものとなる。実際は、構想や動作そのものがそのスケールに合ったものでないと、説得感が生まれない。
小さいものはいけないと言ってるのではなく、小さくて緻密で、覗き込むようにして見て楽しむものと、空間全体を制圧するような力を持つ必要があるものとは、創り方が違う、ということだ。例えばTVと演劇のように。(ところで以前美術の窓という雑誌を読んでいる時に、作家のお悩み相談室みたいなコーナーがあって、美大を卒業した人が学生の時は制作環境が良かったので大作ばかり作っていたため、小さい作品の描き方が分からない、どうすればいいんですか、という質問があってびっくり仰天したことがある・・要は慣れてないことってやりにくいってことですね・・)。

等々、色んなことを自分目線で思い出したり考えたりして、結果としては楽しんでいるオリンピック。それにしても、運動そのものにはあまり興味のない自分ではあるが、いずれの競技もその動きには見入ってしまう。「企図に対してどう夾雑物なく、逸れずにまっすぐ進めるか」というのがアートだけど、そのお手本のようなものがここにある。開会式全体と競技との差、それは個々人の感覚で、明らかに測ることができるだろうと私は思います。

同じカテゴリーの記事

  1. 効率は欲望に左右される 

  2. ルール生成前後

  3. 「多様性」について

  4. 全体と部分

  5. 逆抱負

  6. ほぼ80%の確率

Blog「原初のキス」