メモ魔

自分のあまり好きではない特徴のひとつに、よくメモをとる、というのがある。もっといやなのはその整理が下手なこと(色んなところに書いてばらばらになったり結局なくなったり)、いやそれ以前に、そもそもメモなどとることがどの程度必要かつ重要なのかに確信をもっていない、ということがある。いうなれば頻繁にメモすることを、一種やめられない悪癖のように感じているということ。

本当に大切なことは経験的に言ってほとんど忘れない。私のようなシンプルライフの人間は、本質的にやるべきToDoなど、いちどきには3つくらいしかないのだし。他のことはそれに付随する、いってみればNot to Forgetという程度のレイヤーにしかない。この2つをいっしょくたにしていることも、問題なのかもしれない。

そういえば先日知人が、「「私は今To Doがなくなっているのよね」と言っていて驚愕した。彼女はものすごく要領よくものごとが片づけられる人で、かつ上記のような本質的To Doの数が誰にとっても膨大ではないことを鑑みるに、そういうことはもしかしたらありうることなのかもしれない。

小笠原流という古式の礼儀作法や、少々初期仏教をかじってみたり、ブログでもときどき書いているアレクサンダー・テクニークという身体技法に関わってきた経験があるが、共通することはメモをとることが奨励されない、あるいは物理的にとってなどいられない、ということだった。これらのことがすべて、身体経験と深い関わりをもっていることが関係しているのかもしれない。でも、もしそうだったら、身体との関係がまったくない純情報的あるいは思弁的ものごとって、そんなにたくさん、あるかしら。

さて、単純な質問。たとえば毎日湯水のごとくアイデアがわく人がいるとして(自分がそうとは言わないが・・もっとも数だけなら結構たくさんわくタイプ)、そのひとつのアイデアを形にするのに、そもそもアイデアというものはよほど単純なものでない限りそうだけど、関連の情報を収集したり、実際やってみて結果をフィードバックしたり、技術的なことを修練するのに、数か月はかかったりする。でも一日10個くらいアイデアはわくので、「忘れたらもったいない」と思ってメモにするのに毎日何分かでも使うのは、合理的か、否か?

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