そんな単純なことが

知識を体系化する、あるいは、体系化された知識を吸収することにあまり興味がなく、つまりは「勉強」が嫌いな訳だが、なぜならそういう体系的知識の中には、自分にとって直接関係がなくて実用性のないものが、必然的にたくさん混じってくるからである。

もちろん、すべては連関しているから本質的に完全に関係のないものはないけれど、時間やら能力やらの制限もあるし、何かを体系的に勉強したり情報を集めようとするとなんだかすぐかったるくなってやめてしまうんですね。というか、最初からそういう方向性には近づかない。

と、いう前ふりでワインについて。ワインの知識がほとんどなくて、シャトーやらドメーヌやらグラン・クリュやらその他用語の意味を知らないのはもちろんのこと、どこそこの国や産地がどんな特徴かなどもさっぱりわからない。

でもワイン好きの友達とよくワインを飲んでいるうちにわかったことは、自分のブドウの好みは確かにあるということ。私の好きなのはアリアニコ、ネロダヴォラ、モンテプルチアーノダブルッツォ、ネグロアマーロ、カベルネソーヴィニヨンなど。だから、ブドウだけソムリエに聞けば、めちゃくちゃ外れることはない。

もっともフランスのワインはブドウがブレンドされていることも多いので話はちょっと複雑になるけれども、自分は単一種で作られているワインがどちらかと言えば好きなので支障がない。だってフランスワインは香りも味も複雑でいいけれど、個性はいくらか緩和される。たとえば良家の子女ってどこの国の人もなぜか皆似たような雰囲気をかもしだしているが、そんな感じ。単一のブドウの多いイタリアワインは単刀直入で、たとえとしては国は違うがドイツの写真家アウグスト・ザンダーの色んな職業の人を撮った写真のように、それぞれにキャラの立った存在感がある。

「ブドウのことだけ知ってれば、まあ大丈夫だよねー」とそのワイン通知人に言うと、そうだという。もちろんこれは、ワイン道を究める、とかソムリエになる、というのとは別次元の、一般の人が自分の嗜好にあったワインを飲むことに関するちょっとしたノウハウにすぎないが、それにしてもそんな単純なことがなぜ世の中でわんわん言われずに、なんたらかんたら難しいうんちくばかりが横行するのか、私にはよくわからない。

ところで昔飲んだビオワインは強くて個性的で深みもあってすごくおいしかった気がするが、最近よく日本で出まわっているのは全般的に浅くてさっぱりの感じが多く、ほとんどワインかジュースかのキワを狙ってる感じすらしてしまう。とはいえ、ブリューゲルの絵の中でよぱらったりしている人の飲んでいたワインは、私の好きな濃くて洗練されたビオか、さっぱり素朴なビオか、どっちなんだろうか、わからないけど。

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