書くこと、書かれたもの

私は考えながら書いたり、書くことで考えを深めるというタイプでなく、書くということは自分にとってわかったことやその時々の疑問などを生け捕りにして、備忘のために記録する行為である。だからそれで何かを美麗に表現するとかにはまったく興味がなく、興味があるのは正確さ、簡潔さだけ(もちろん修行中だけれど)。文というもの自体に、今はあまり愛がないような気がする。

いつのころからか小説を読むことすらやめた。それはすごいと思う文学に触れた時期と重なり、ある意味そういうものを読んだからとも言える。バーニス・ルーベンスの「顔のない娘」やポール・オースターの、「最後の物たちの国で」、アンヌ・フランソワ「壊れゆく女」、阿部和重「インディヴィジュアル・プロジェクション」などなど。小説というものの上では、無制限に現実には存在しないイメージや言葉を展開することができるのに、優れたものであればあるほどそれが逆に現実そのもののようになまなましいことが感覚的に厭だったのだ。少なくとも絵画など美術においてはそれが現れたときはモノであるから(絵具、とか空間における体積とか)、イメージと現実は、仲良く、いや時にはいがみあったり干渉しあったりしながらも、結局のところ等価に存在している。

しかし小説を読むのをやめるずっと前、高校生位の頃はむしろ文こそが自分の世界で、ほんとうと感じられることはいつも文の形で知り、認識するという具合だった。前にもちらっと書いたが、マルグリット・ユルスナールの「ハドリアヌス帝の回想」だったか、今手元にないので正確な文ではないけど、「美とは見事な過度である」という意味の言葉があって、何日も心の中で反芻したりしていた。

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