平塚市美術館に、長谷川潾二郎(1904年~1988年)の展覧会を見にいった。
遅筆と言われている人で、展示の間に掲げてあった日記の抜粋からは、りんごを描いたり直したりしているうちにまた新しいりんごを買いにいかなければならなくなったり、ケシの花が枯れたり、愛猫が老衰で亡くなってもまだ絵ができてなかったり、気にいった土の色が、季節がめぐってまた現れるまで1年も待ったりしていたことがわかる。問題は時間ではなく、なにをもとめているかだ、という意味のこともおっしゃっている。
後年の静物画は殊にすごくて、野菜や果物、食器など身の回りのものを小さい画面に描いているのだが、ものみな内側からぴかぴかと光って、「私ナスですけど、ぶどうですけど、ミルク瓶ですけど、なにか?」と言葉なき言葉でばーんとした存在感が迫ってくる。絵を見ているというより、絵に見られている感じ。キテレツなものは何一つ描いてないのに、なぜか超現実的な感じ。
しかし一旦美術館の外に出てみると、超現実というのは誤解だったことに気づく。
彼が好んで描いていた緑の木々が、ことごとく「長谷川潾二郎」風に見えるので。つまり彼は、見たままの「現実」を描いていたのかしら。
それとも優れた絵画というものは、我々の知覚のシステムに侵入し、それを強制的に変革(洗脳?)してしまうものなのかしらん。
平塚市美術館 「平明・静謐・孤高-長谷川潾二郎展」