ゲルハルト・リヒター “PATH”@ワコウ・ワークス・オブ・アート

ワコウ・ワークス・オブ・アートに世界一好きな作家であるところのリヒター展を見に行く。

大昔知人と自分の間で密かに流行っていたことに、「大きく二つに分ける」というのがあった。
多少分けづらくとも、そもそもその対象物をその観点から二つに分けるのがふさわしかろうがなかろうがおかまいなしに。
この二つに分ける作戦はしかし我々だけが使っていた訳ではないようで、以前あるブティックの男性オーナーが、「女の子はお姫様か女中かの二つに分かれるの!」という主旨のとんでもない発言をしていて笑った。

もとい、アート、特に平面作品を見るとき自分は勝手に「眼派」か「脳派」に大きく分けている。視覚を喜ばせる派か思考を励起する派と言えば少しはわかりやすいだろうか。

で、少なくとも今般の展示におけるリヒターは脳派。

Pathというエディション作品がたくさん展示されてて、どれも森の中の小道風の写真に蜘蛛の巣みたいに細い白い線がさっさっと色んな形で載っている。これを見ていくと、考えることがやたらと出てきて急激に頭が忙しくなった。(因みに自分の場合、実作を見るまで敢えてギャラリーによる解説は読まないので、全部自分で考えたり推測したりしなければならないのである。)

森の小道の写真が同じか違うか(これを見極めるため前後の作品の間を何十回も目線を行き来させる。この時点で完全に行動をコントロールされてる。確信はないが、多分同じ・・、という結論となった。)
その上に色んな形で走っている、白い線みたいなのは何を使ってどうやって施されたものなのか。
(視覚的にはどうしてもわからなかったが、途中が点々になったりもしてるしなんか修正液みたいなのをはねさせたという感じがするところもある。)
この白線は下の写真となぜどのような企図をもって組み合わさっているのか。あるいはそう組み合ったものがなぜ選択されたのか。
線の動きは何か参照している形態があるのか。それともこれを付けた時の動作の中で必然的にあらわれるにすぎない形なのか。
なぜ色々な幅で平行になっている二本の線がしばしば現れる一方、ごく微妙に(じーっと見ないととわからない位に)平行をはずしている線同士があるのか、これは意図的か偶発的か。
構造的にはOverpainted Photographという写真に絵具を施した別のシリーズに似ているが、それとの本質的違いについてはどう認識しえるだろうか。
等々・・・。

こうかな、ああかな、と思う推測が、1点ずつ見ていく内に勝手に動いていって定まらない。頭の中に、まるで結ばれてはほどけ、ほどけてはまた結ばれそうになる糸が出現したような具合。

大型のガラスの作品も展示されていてこれにもまた興奮する。複数枚のガラスを通して外部から差し込む光と、表面にうっすら写る自分の姿を交互に感じるようで、決して定位できない視覚が生じる。ガラスの向こうを意識すると表面を忘れ、表面を見ると奥を忘れる。向かい合う人か壺に見えるルビンの壺みたいに、ゲシュタルトのまとまりがくるくる転換する。言葉では説明しづらいが、Pathにもそういう機能がある。

ハンモックというものに自分は寝たことがないが、ロッキングチェアには座ったことがある。いずれにせよ揺れるもの、不定ということはある意味で快感だ。
芸術の崇高なミッションの一つとも言えるかもしれないが、この間少なくともあれやこれやのこの世の憂さは、観者の中で捨象される。

ゲルハルト・リヒター “PATH”
ワコウ・ワークス・オブ・アート(六本木)で6月1日まで

(上記の疑問のいくつかは、解説でわかります。)

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