展示のリアル ~ クリムト展@東京都美術館

都美術のクリムト展へ。

展示は行ってみないとわからない。足を運ばない限り、作品やそれに対する自分の反応のリアルを経験する術はない。チケットやポスターなんかに印刷されてる作品に最も感動するとは限らないというのもひとつ典型的現象だ。個人的には今回の場合もしかりで、自分はバーンとしたこれ、「ユディトⅠ」
ではなく、最初の方にあった初期の小さな肖像画「レース襟をつけた少女の肖像」がえらく面白かったのである。(こちらのサイトの中程に図像がある。)

理由は単純で、同じ画題で隣にあったフランツ・マッチュの絵と比べたから。
マッチュも素晴らしい画家ではあるが、本作品に関して言えばクリムトと並べると、後者による少女の顔を見ているときのみ自分は、あー、この子この後どんな人生を歩んだのかしら・・となんかちょっと感情移入し心配になったりしてくるのだった。なんだか人生の普遍的重みみたいなものが現れてて、マッチュのきれいに描きましたこの絵も少女及び画家の当時の状況も特に問題ありません、というのより、イメージの時間的広がりのある表象内容に刺激されるというか・・しっかりとひっかかったのであって、そこで自分は表現というものについて、少しばかり脳を使わせてもらったのである。

あとはオイゲニア・プリマフェージの肖像なんかの、背景とメインモチーフがとけ込むように、装飾的意匠でつながっていて必ずしも人体部分が目立ってないのが、クリムトがどんな人格だったかはっきり知らないにも関わらず、これやるのそこそこコワかったんじゃないかしら、と思った。
以前高名な作家の先生がふと、「絵には種々のお作法がある」とおっしゃりそれを聞いた自分は震え上がったことがあった(今もそうかもしれないが昔は更に構図だの色だののお作法を知らずかつ、お作法には基本絶対に従わなければまともに作品は作れない、と信じていたからである。今は前より随分図太くなったが)、クリムトの生きていた当時だってメインのモチーフをしかるべく浮き立たせるというのは基本のお作法だったはずだ。それを日本の影響だったかなんかも含めてあったと思うけど、確信犯的に平面的に処理していくときのクリムト氏の内面状況はどうだったであろうか、と、勝手に想像した次第。まあコワおもしろい、といった風だったかもしれないけどさ。もしかしたら関連の文献が残ってるかもしれないし、学者さんや評論家さんは調べてからもの言う必要があるが、自分はそのどちらでもないので、「感想」として述べさせて頂く。

ところで一緒に行った知人が、全体として、「もっと明るいところで見たかった。」と言っていたのも面白い。金箔を用いたものなど、確かに光があればずっとピカーッとして楽しかったはず。為政者のお城の中とか、教会なんかの中に置かれているのが主の絵とは違うだろうとは思う。でも個々の作品に最適な光の状況ってのは違うし、作品保全の問題もあるから、結局の処美術館で見るような絵画の展示におけるリアルは、残念ながら担保されてない要素も大いにあるのである。

クリムト展 ウィーンと日本 1900 東京都美術館

 

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