実感という罠

人間何かをしているとき、大抵のばあいその行為で達成したいことに対し合目的でないことをわんさかやってる。何かやってるように一見見えても、80%くらいのエネルギーは本来「そもそもやらなくていいこと」に費やしていて、何かやりながら実体としてはほぼそれでないことをやってるようなものだ。

でもだからといって、やらなくていいことをやめてみると、なんだか急に「何もやってない」感に襲われることが問題。実は、自分が「やってる」と実感するそのほとんどの感覚を、「やらなくていいことをやってる感覚」に依拠していたということだ。

たとえばの話、掃除機をがんがんかけていると、つい頭を押し下げ胸郭を狭めて不自由きわまりない力んだやりざまになるけれども、そういうとき(必ずしも頭の中で言語化してるとは限らないが)「掃除してるー」という感覚になっている。なぜそれがわかるかというと、そういう不自然な体勢をやめてみるとあまりにすいすい掃除できてしまうがゆえに、「掃除機をかける」という行為が他の生活の諸行の中から別にうきたって見えなくなり「生きることの一部」になってしまい、「掃除機を(こうしてがむしゃらに)かけている(自分って結構エラいよね)」感がなくなってしまうのである。

しかしこの、なくなってしまう感というのは誠によい。なぜなら、何もやってないという感覚はそこにスペースがあることを意味している。つまりほんとうに、こころの底から今やりたいことをやり始められる自由というものが存在し始めるのだ。

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