永久運動

ビデオは哀しい、写真はもっと哀しい。哀しくないのは、絵画だけ。

去年ハプスブルク展に行ったとき、肖像画がたくさんあったが、つやつやした絵肌を透かして見る人々の上気した頬、生き生きしたまなざしやたたずまいを見ると、宝石や刺繍のついた豪華な衣装を着たりもしている彼らが、Tシャツ、ジーンズ、スーツなどを着たことがなかったこと、ましてファスナーなんて存在すら知らなかったことが不思議になる。

絵は、「手」の軌跡だ。手の動きの結果がモノとしてそこに現前している。写真やビデオを見ると、むしろ頭の中で考えたもの、あるいは記憶、というものに近く自分は感じる。ハプスブルクの絵画はもちろん触れることはできないが、触ることは原理的には可能である。一方写真やビデオに写っているものには、直接触ることができない。これはメディアとしての意味や作品の質のよしあしとは別の、単に物理的特性だが。絵は、触覚系の、触りたがり屋のメディアだと思う。

もとい、言い古されてはいるだろうが、絵は永遠の現在である。

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