全員敗北

以前勤めていた会社で随分昔に係長昇格試験を受けたとき、緊張して机についていた我々に対し人事部の若手女性が、「では、これから<試合>を始めます。」と宣言して全員いい意味で腰砕けになった。(もちろん、彼女自身緊張していたために「試験」を「試合」と言い間違えたもの。) でも、昇格試験が場合によって試合でないとも限らない。一定の人数しかなれないとすれば、他の人々に対し自分は立派に試合をしていることになる。

実際に意識しないまでもいろんなことが試合、すなわち相手のある勝負なのではないだろうか。昨夜青山のライブハウス「月見ル君想フ」でファーマーズ・マーケットというノルフェーのトップバンドのライブを聴いて思った。シュミの合った人々をたまさか楽しませることもある、というのがゲージュツ家の定義ではなく、あらゆる人々を感覚の舞台に引っ張り出し、完膚なきまでにねじふせ、しかもねじふせられた人が幸せでたまらない、というのが真正ゲージュツ家のありようなのを確信。しかもそのときそのゲージュツはもはや音楽とか美術とかジャンル分けしうるゲージュツを超えており、まさに超えていることをもって真正ゲージュツであることを自ら証明している存在だということ。

ものみなすべてにノリがある。のろうとしてのれず遅れながら焦ったり、まったくもってのらなくてしょぼい感じでさびしく個別にのたくったり、傲慢にもノリをひっぱろうとして早まり、ノリとは関係ないところに行ってしまったりするのでなく、天然に存在するノリとものすごいスピードでおいつけおいこせの試合している。もちろんミュージシャン同士も同様。

という訳で、「アンコール?もうやめて!」と叫んでいる人がいる理由もわかるというもの。感覚と身体の鍛練という点で彼らに伍するには、基本我々聴衆はある意味幸いにして、あまりにも修行が足りない、ということなのだ。

あらゆる敗北は多かれ少なかれ苦いものかもしれないが、ゲージュツにうちまかされるのだけは、唯一とってもおもしろい。

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