そういう感じがする、ということを、我々どの程度信用すればよいのだろう。
ある判断・選択が正しい「感じ」がする、だから、ある行為をしたりしなかったりする、ということは日常茶飯事な訳だが、それほどに感覚って、信用のおけるものなのか。
あるいは、元々は生命体として信用のおけるものであったはずの感覚の力を、言葉による思考、また外部からの情報が減衰させている、それを再び信用のおけるものに訓練する必要があるのではないか。そのために、芸術やスポーツを始めとして人がコミットしてやる活動の存在価値または機能が、あるのだと思う。