プロセス探偵完敗すの巻 ~ 北山善夫展『事件』@MEM

展示に足を運ぶ大きな理由の一つに、制作プロセスについて想像し、刺激を受けるというのがあるが、本展オープニングに行って最初の作品を目にした自分は、その前で長時間凝固してしまった。

・・作り方が、全然、わからない。

それは例えばこのような作品なのだが、小さい点のようなものやその他の形態が密集して種々動勢の上を濃淡を含みながら、支持体のほぼ全面に配されている。更にどの作品を見ても、自分の全然わからないは継続するのであって、極めつけは少し区切られた奥のスペースに展示してあった、大量の泥人形のようなものが折り重なったり絡んだりと大変なことになっている作品だった。泥人形の集団を自分は見たことがないが、その像が異常に「精確」であることは何故かわかった。そこで連想したのは、「写真」である(ただしマチエールは全然違う)。全作に共通してそれらの相貌としては、一瞬または時間の超越(即ち永遠)を感じさせ、また明確に異界風なのに、なぜか恐ろしく現実的。

しばらく観察していた自分はしかし、プロセス全部が人力(じんりき)の訳ないよね、と一応のところ結論づけた。なぜなら、人が手だけでやるものとしては単位面積あたりの情報のビット数があまりに巨大で、これが達成できるのは自然による「現象」か、あるいは疲れを知らぬ装置などがまさに機械的に生成するこれもまた別種の「現象」だけであろうと感じたからである。
デジタルと人力の複合技法かとも思った。特殊なメディウムも用いて転写とかはじきとかが活用されているかもしれないし、イメージの形態とか質感自身にも、恐らく均質・精緻とか精確性といった印象の側面で、デジタルを感じさせるところがある。キャプションを見たらインクとあって、出力を一部用いていたってインクはインクだ、と自分を納得させるが、どうも感覚的に腑に落ちない。で、実際は全て北山氏の手によってのみ作られていたのである。

通常、案内のイメージだけ見て展示に向かい、展示が気に入れば解説を後で読むということをしている自分は(であるからして大変高名な北山氏のような方を寡聞にして知らないまま会場に行くという・・)、こういう時大変得した気分になる。作品という事件の主犯格は概ね二人いて、それは構想とプロセスなのだが、その主にはプロセス面を探偵する自分は、その場で事件が解決しない方がよほど嬉しい。

これらの作品は、一瞬と永遠をショートさせているの感がある。芸術には時間がない。芸術にとっては一瞬も無限も同じである。というか、良き芸術は真実を扱うが故に、真実には時間がなく、時間があるのは人間の側だけ、ということか。

図録も買ってきたがまだ読んでないので、盛大にあさってのことばかり言ってないか少しだけ心配だ。しかし心配症の自分にしては珍しくこういうことについてはあまり心配しないのであった。自分が感じたり考えたりしたことは、これはこれでまごうかたなき一つの真実なのである。

北山善夫展 『事件』
MEM(恵比寿)
6月16日まで

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