なぜ自分のやりたいことがわからないのか

青春まっさかりの人のようなタイトルだが、自分のようにいい年をしてまだこういう感覚をどこかで持っている人や普段そうでなくてもそんな場面に陥る状況は、誰にでも多々あるような気がする。ある意味一生そうであるのが人間ではないか。

悲観的なのでなくつまりこういう仮説を自分は持っている。

人はやりたいことははっきりとあるのである。ただそれは多分に言語を越えるもので、またその企図に基づいて何かしたとしても現実世界に出力したときにもとの思惑から様々な要因でもって不可避的に大なり小なりずれてしまうので、それを実際に見て自分にフィードバックがかかる時に、そもそも非言語的である企図が「あれ~、なんだったっけか・・」となってしまうのだ。

例えば自分が正円的なるものを描こうとしているとしよう(それをはっきり正円と言語化している訳ではない、秩序とか循環とか自分の肉体に対するなじみ感とか総合的感覚としてのイメージみたいなもの)、で、描いてみると微妙に歪んで五角形っぽくなっちゃうんですね。それを認識した私は、ん~もう少しこいつを格好よくするには・・・と考えるうちに、取り急ぎ少しはもとより格好いいかもしれない六角形あたりを苦労して作ろうとする、と。その中で技術的障壁に悩んだり時により魅力的に見える新たなチャレンジなどが現れ、いつの間にか六角形どころかいぢり倒した三角形状のものができあがる。そうして元来目指していたものが、いつの間にか忘却のかなたへと去っているのだ。

別にいいではないか、という意見が世間の大半をしめそうな気がするが、実は私もそれでいいと基本的には思っている。最初の企図をもっとはっきり「せいえん!」としとけばいいぢゃん、という意見もあるだろう。だが言葉にすると小さくなってつまんないのである。

恐らくは、この、ありがちなフィードバック現象とそれによる絡めとられ現象について自覚しておくというのが若干の対応策となろう。自覚しつつ「もっていかれてあげよう」と思うならまだいい。自分が動かない普通の島でなくひょっこりひょうたん島に乗っているのは気づいていた方がいいんだから。

あとは、行先がたくさんあれば一見もっていかれているようで一応狙った行先のどれかに着いてる、というのもあるな。具体的な国名でなく「ヨーロッパ大陸」としておけば多少航海技術がアレでも海が荒れても、どっかには着く(途中で難破したり、アフリカやアメリカに着かないようには少し気をつける)。どちらかと言えば自分はこっちの戦略を取りたく思う。

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