信じない

信じるとは明らかに、不確かなものに対する態度である。
なぜなら既に知っていたり、はっきりと理解したことについて、人は信じるという言葉を使わないからだ。
「うちの犬の名前はマロンであると信じる」と言う人はいない。

でも考えてみたらそんなことを言い切ってる自分、めちゃ色んなことを信じている。

例えばメモしておかなければ、重要なことを忘れてしまう、と「信じ」ているので、有害な位にデジタル及びアナログのメモとりまくっている。友達から電話があって、40分後にXX駅の改札ね!と言われてもすぐさまポストイットに時間と駅名をメモし、PCのモニターの上辺に貼ってしまう位、病膏肓に入った状態のメモ魔なのだが、これまでの人生で殆ど(ゼロとは言わないが)、待ち合わせの約束を忘れたことはないのだ。制作のアイデアメモなんかも、いつか創るかも、いつか役に立つかもというもくろみの下、化け猫みたいに9回生まれ変わっても創れきれないくらいたまってる。
メモをとるのを3日間だけでもやめてみようかな・・・コワ。

清水の舞台から飛び降りるような気持ちでそれに取り組めば、もしかしたら新たな超時短人生が開けるかもしれないのに、その可能性をまだ十分に「信じて」いないために、その行動が取れないのである。信じることの弊害は、必ずそれに関わる行動というものが岩盤のように形成されて、容易には変更できないことである。なんらかの手段により信じているものを書き換える、というのもアリかもしれないが、自分の好みとしては、できることなら「何も信じない」方面に進みたい。だって何かを「信じる」って、本当に、現実的に、それがないと何もたち行かない位に、必要かなあ?人間はなんでもすぐに信じちゃうので、その全体を「悪行」と捉え、気づいたらすぐさま信念の断捨離にいそしんだ方が、いいのじゃないかしら。言うはやすし行うは難しではあるが、請け売りではあるがブッダが容易に「信じる」ことを戒めたことがあったそうである。即ち、

言い伝えられてきた、評判になっている、お経に書いてある、理屈や常識に合っている、自分の考えや信頼できる人(ブッダ自身も含め)が言っていることだからといって、信じてはならない、自分で確かめろと。

私なんかさほど評判には左右されないけれど理屈、自分の考え、尊敬できる人・・のあたりはかなり心許ない。
それにしても、特に初期仏教ってそもそも宗教と言えるのだろうか。これを見ると、宗教だと「信じて」たのが間違いなのかも。

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