おなじ

3月末までに片づけたい仕事があり、東京で連日の揺れや原発事故の情報におびえていると脳のCPUが影響を受けはかどらないので、短期的であれば仕事がどこでもできるという個人的状況も考慮し、実家のある北陸の方に一時帰郷している。ここはほとんど余震の影響がなく、住んでいる場所の放射能濃度について人々が話題にすることはなく、停電もなく、スーパーにはものがあふれている。自分は正味45分ほど飛行機で飛んでここに来た(ちなみに報道はされていなかったがその日羽田は異常な混雑で、乳幼児連れの若い母親たちの姿がいつもより特に目立った)。別の世界に来た感がある。数日前の自分とはからだが違う。考えることも違う。連れてきた犬ですらぐっすり寝ている時間が長くなっている。

「首都東京」に関する情報はほとんどと言っていいほど報道されていない。それもあってか、今回の地震や原発の事故について、「日本全体のこと」と感じるのは、自分のように途中から一時的に移動してきた者はともかくとして、最初からここにいたら、実感するのはおそらくかなりむずかしいと想像できる。一方でもちろん駅前などでは学生が連日募金を呼びかけているし、協力する人もたくさんいる。

人間は身体的・知的な情報理解によりその反応を変えるので、違う状況にある人と同じ気持ちになることはできない。もっと言えば、違う状況にある自分は同じ自分ではない。

人はしかし、同じ自分の継続を目指して四苦八苦する。原理的にそれは難しいことなのではないかとは、「頭」では、理解しているのである。

この記事に結論はないが、ある厳しい状況の中にいて、日本という視野、未来について大所高所からモノを見ること論じることと、別の場所で日常が営まれていることと、ざっくり言ってしまえば人間の「反応」である。どちらも、現実ではあるが本当とかより正しいとかいうことではないように思う。我々にとって大きな関心事は、たいていの場合自分がさまざまな状況に「どう反応しているか」というそのものなのだ。それは感覚的に大きな「印象」を与えるからである。

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