バギーでスマホ

自分は絵を描くのでまざまざと実感できるが、人間の感覚的リソースというのは一時にはそんなにマルチな事柄に振り向けられない。何か作業していてふと「この前あの人が言ったあの一言、むかっぱらが立つ~」と脳内焦点が一瞬シフトしただけで、もうこれは100%といっていい位に、ろくなことにはならないのだ。

という訳でこの前バギーに乗った赤ちゃんが真剣な顔でスマホを凝視しているのを見て自分は恐れをなした。
暑いとか寒いとか、空気がいいとか悪いとかの方が赤ちゃんにとっては重要でそれで泣いたり騒いだり笑ったりする方がいいのではないかと思ったからだ。スマホを見ていたら必ずやある種の「感覚遮断」に陥ってしまう・・。
でもスマホだのITだのはとっても便利だし、藤井X段(何段だか知らない・・)なんかが超絶強いのもITによる学びや研究が寄与しているらしい。

なので結局、「ま、ものは使いようよね・・・」という人類が道具を持った時点から既にずーっと変わっていないだろう結論に落ち着くのだが、しかしその、「ものは使いよう」という線を的確に実現するのが一番難しいのであって、ブッダも「中庸とは難しいものである」と言っている(はず、確かにどこかで聞いた気がする)。
自分の感覚では、中庸を極めようとすれば結局、感覚・知力を盛大に使って個々人において経験し、また見極めていくことになる。そういう意味ではここにいる私が今、そしてこれからどうITを使っていくかなど、殆どアートに近い。

そう、アートというのは特別のことでなく、生きることそのものがアートまみれなのだ。だから自分は(特に日本語においては)基本アートという言葉を使いたくないんだよなーと思っており、制作行動の周りや展示をやったり見たり考えたりといったあたりのことどもについては、極力美術または芸術と言って、誰からも頼まれてないのに一人勝手にアートの領分を狭めようとしているのである(とはいえ使ってしまってはいますけどね)。

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