見えないものへの感受性

夏の暑さとかたいていのものは五感で感じることができるのに、何にも感じない放射線は困る。感じないものへの(感情や思考に基づく、あてにならない「解釈」とは別ものの)「感受性」というのは存在するのか。

そこにあることが明らかなのにまーったく感じないものって、放射線意外にどんなのがあったっけ。自分の後ろに気配を消して人が立ってたって鋭い人は感じる訳だし。私はW-LANが普及し始めた頃、そういう環境に入るとたとえそうと知る前にもなんかヤな感じがしたものだが。

存在するのにほんとうに何も感じないものがあるのかって、実は自分はあまりそう思ってないことに気づく。

そういえばレオナルド・ダ・ヴィンチが確か、「過剰な感受性が生涯自分を苦しめた」って言ってたな。一方彼の絵ときたら、むしろ理性の輝きに眼もくらむばかりだ。理性と感受性を、対立項と認識するのは必ずしも適切ではないものの、制作する人は少なからぬ場合自分の「欠落」あるいは「願望」を、描くということではないかと思わせる言葉。よく作品て自画像だと言われる。自分がそうであるところのもの、というのは、自分の持っているものの現状であるとともに、自分が今そうではないもの、への、願望であるかもしれない。

そうは言っても、「願望」というのは不精確な言葉だとも思う。願望が願望そのものとしてとどまってる状態なんてどうでもいい、もしもその願望が真実のものならば、具体的な形を与えることこそ、ふさわしいのだ。

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