見てない理由

「徒然草」の第九十段は面白い。

『大納言法印の召使ひし乙鶴丸、やすら殿といふ者を知りて、常に行き通ひしに、或時出でて帰り来たるを、法印、「いづくへ行きつるぞ」と問ひしかば、「やすら殿のがり罷りて候ふ」と言ふ。
「そのやすら殿は、男か法師か」とまた問はれて、袖掻き合せて、「いかが候ふらん。頭をば見候はず」と答へ申しき。
などか、頭ばかりの見えざりけん。 』

ある高僧が、自分の召使いの男の子が外の男と親しくなりしょっちゅう外出するのを心配して、その相手が出家しているのか否かを聞いた処、召使いが、「さあ、頭は見ていないので。」と答えたというお話。

頭を見てない理由ははっきりしないまでもいくつか色っぽい想像が働く訳で、どうして頭だけ!という兼好法師のつっこみも笑える。

徒然草の多くの文は平易で、仮に少しくらいわからないところがあっても、楽しく読む上で支障はない。
学校の教科書で難しく感じるのは、難しいところを「わざわざ選んで」のっけているからである。

こういう教育的配慮は、もちろん受験や何かを考えるなら許さざるを得ないけれど、文化・芸術の感性開発とは、致命的なまでに逆行するなあ。

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