静か について再び

先日も静かであることにつき記事を書いたが、旅行をして東京よりずっと静かなところに行っていたら、気づいたのはそのとき聴こえる音の大半はそれでも、「人間が創っている音」だということだった。日本に三つしかない国宝の茶室のひとつを見ているときも、隣接するホテルの駐車場でゴミを吸っている掃除機の音、飛行機の音、車や電車の音などが、結局のところ自分の聴覚の感受能力の大半を占拠している。むしろ静寂を意識する(できる)環境になればなるほど、人工の音は目立ってくる。竹の葉が風にそよぐ音や鳥の鳴き声は、存在感としては相当なものだけれど、耳をすまさなければ、もはや聴こえない。

我々はすでにそういう世界に生きている。だから、ほんとうに天然自然の音しか聴こえない場所に行ったら、おそらく多少なりパニックになるかもしれないほど、静かであることは一種異常な状況だ。蛍光灯が一本点いているだけでも、なんらか音がするのだから。そもそも茶室やそのまわりの庭にある「自然」だって、大幅に制御されたものだけれど。いずれにせよ自然というものにすら人間にとっては、精神の強度がある程度は必要になるのである。

しかしながら、自分の感性を人工と天然、どちらに軸足のあるものに今となっては「矯正」するかが、問われていることなのかもしれない。自分の「今」はどっちつかずだ。どっちつかずでいるしか、適当に普通でいるすべは、ないのかもしれないけれど。適当に普通でいる、のを、目指すのだとすれば。

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