「常識」の力

世の中には知識の格差というものがある。たとえば、地震や原発の知識は、いわゆる専門家と一般人では、一般人がテレビ・新聞の報道やネットやなんかでいくら知識を仕入れ勉強しようとも、具体的な専門知識について、その巨大な差はさほど縮まりそうにない。

しかし一方で、論理性というものは必ずしも専門家と一般人の間で本質的な差があるものではない。どっちが優れているということでなく、どっちもどっちなのだ。別に教育のせいばかりにするつもりはないが、理に適ったものの考え方について、誰がいったい、どういう方法で誰から、きちんと学ぶことができたというのだろう。

今日原発から30キロの場所で高濃度放射性セシウムが検出され、専門家が「雨などの影響で局地的に高くなっている可能性があるので、引き続き広く調査を行う必要がある」と言っている。嘘を言っていないのは論理的にわかる。しかし土地は広いのだから、たまたま計ったところが局地的に高くなっているところにばっちりあたった可能性は、そうでない可能性より低い。「局地的に」とわざわざ言っているのだから、語義からしてそうなのである。(仮に「(サンプルをとった場所の土が)局地的に高くなっている」蓋然性についての背景があるのなら、示せばいい。)

だから論理的に、これは「選択された表現形態(メッセージ)」なのだ。そのことと、精確に情報を出さなければならないとか、正しい知識で落ち着いて情報を受け止めなければならないとか当局が言うのは、論理的に矛盾している。こういうのを、二枚舌というのである。

しかし一方、情報は結構出ているというのが自分の印象。封建社会でないので、そこのところはいい。だからこそ、「へんだなー(論理的に)」と思う自分の常識的感覚を、まあ使ってみようかな、という気にも、なれるのだ。

専門家の人に対しては、自分の知性や学問領域に対して、ほんとうに誠実であることを、求めたい。素人が聞いておかしいと思う偏向したものいいをするというのは、殊に人間の命や健全さが関わるような領域においては、自分の職業に対する裏切りである。

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