原発について言えば、それが「選択肢」のひとつであって、色々な想定やら条件のもとに、選ぶか選ばないかを選ぶことができるもの、と認識していたのがそもそも誤りだったと自分は思う。 そういう意味で原発は「戦争」に似ている。 作家の平野啓一郎氏がツイッターで、手を使わなくすることでサッカーのあらゆる可能性が生まれたと述べていたが、何かを使わない、何かをやめることの巨大な便益、そこからひらける可能性というものは、確実に、ある。 「全体と部分」 Tweet Share +1 Hatena Pocket RSS feedly Pin it - 東日本大震災 原発 会話前の記事 道理次の記事