方向音痴のリアル

今まさにこの瞬間がそうなのだが、自分は道に迷っている。地図を持っているのに目指すところがどうしても見つからず、疲れてきたのでカフェに入ってこれを書き始めた。

地図が読めないため迷子になり、自分がこれまでの人生において投じた時間とお金は膨大だ。お金の方は今みたいに歩き疲れてカフェに入ったり、結局タクシーに乗ったり・・・(ツーメーター以上目的地からずれていることもあって驚く。運動にはなっているのが不幸中の幸い)。

目的地に電話して教えてもらうこともないではないが、なるべくなら自力でなんとかしたい私。でも結局自力でさばけず、その昔お犬に連れて帰ってもらったこともある。

もっとも毎回は迷わない。10回に3、4回は真っすぐ着ける。その場合は、目的地には行ったことがないとしても四方を知ってる場所で囲まれていたり、そもそもX駅Y口出て正面などのように迷いようもない位単純な場所であることが多い。

別に四方から囲まれてなくても近くに1カ所知っているところがあれば何とかなるのでは、と人は思うかもしれないが、その知ってるところの例えば道一つ向こう側に渡った場所だとして、その渡る道の選択を間違えてしまうのである。あるいは前の用事などから知ってるとこにいつもと違う駅から向かわねばならない場合、単に一つ行けるか行けないかわかんない場所が増えるだけ・・・。

自分が迷う理由としては、「(地図にのってる)道が建物や人に隠れている」というのが結構多い(この時点で既に、私の話についてこれる人は選ばれた民であろう)。他にも地図の右と左が自分の右と左とどう対応しているのか、即ち順なのか逆なのか、あるいは上なのか下なのかがわからない、地図の縮尺と自分が見ている現実世界の縮尺のイメージが違っているために、遠い・近いなどの感覚がずれている、地図では曲がっている道が自分には真っ直ぐにしか見えなかったりその逆もまたある、等々がある。

道の太い、細いなんかも、これ細いよね、という道が太い道だったりして、細い道を越えたら左、とか考えてるうちに(もしかしたらこの戦略?自体間違っているのか)違う場所につれていかれてしまう。方向音痴でない人にとっては、もはやポール・オースターかなんかのSF仕立ての小説位不条理なことを言っているようにしか聞こえないかもしれないがすべてほんとの話である。

それにしてもこんなにたくさん理由があったら知らないところに出かけるたびにこれらのどれかに容易にはまってしまうのは当然のような気がしてきた。よく迷う理由は確率論的にも証明されたよ。とほほ・・。

実際、駅を出て、自分の持っている地図を見て、どっちに向かえばいいかわからず駅前に立ててある看板状の地図も穴のあくほど見て、手元の地図と駅前の地図を見比べると確かによく似ているのだけれど(当たり前だし、この見比べる行為の意味も今ひとつわからない・・・)、いざ現実世界を見てみると現実の向き?が地図と違うせいかどうにもどっちに歩を進めてよいのかわからず、まるで燃料切れで目的地とは異なる星に不時着した宇宙飛行士のごとく凍りついたまま途方にくれてることも多い。

外出のため地図をプリントアウトした時点で、その見かけから「この地図ヤバい・・」と、実は地図でなく自分がヤバいのだが、予想がつくこともある。そしてこの予想は悲しいことに決して外れないのである。

また、これは自分でも不思議なのだが、この方面における自らの能力のなさを熟知していながらなぜか、地図のチラ見でわかったというような気になってしまい、歩きだして全然わかってなかったということが証明されることも少なからずあるのだ。ちなみにスマホの地図はできる限り避けている。大きくしたり小さくしたり動かしているうちにますますわからなくなるし、指で不用意に押したところがいつの間にか新たな目的地に設定されてて、隣の町まで運ばれていったこともあるから。

思うに、頭の抽象度が足りないのだ。

地図という抽象世界についていけない。自分はどちらかと言えば、「ぴったり同じものしか」、「同じ」とは認めたくないのである。地図に書いてあるAという場所が現実のソレでもありうることを、どこかしら十分には信じていない気がする。

でもそういう自分が絶対に迷わない地図がある。それは文字のみで指示される場合である。X駅のY口を出たら右手のZ銀行に向かって道を渡り・・・、とかいうアレ。でももはやそれは「地図」とは言えない。だって図ぢゃないんだもの。

この件がさっきの抽象度の話とどうつながっているのかはよくわからないが、いずれにせよ文字と現実位ハデに違っていればもう自分はそれが同じであってもかまわないという、自慢ではないがユニークな立場を取っているのである。(絵)地図と現実のように、一見似てるようで違うのが非常に苦手だ。そうするとつい似てるところを探さねばという構えになり、でも事実上かなり違うので、混乱してしまうのである。

もしかしたら自分が絵を描くのは、その空間(ていうか平面だけど)は、自分の思うがままにはもちろんならないとしても少なくとも一望し掌握はできる、ということからくる安心感もあるのかもしれない。

お茶がなくなったのでこれからカフェを出る。いったい目的地に無事たどり着けるのだろうか、博打を打つような気分だ。

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