既知と未知

4月末に終了した美の起原でのグループ展示には、多くの方々にご来廊頂きありがとうございました。

今般の展示で複数名の方から作品について、暴力的であると言う言葉を頂き、それは面と向かって明るく言われているが故に思うに非難ではなく(別に非難方面にだって自分は完全にオープンですが)むしろありがたいお言葉だ。

なぜならば誰が作るものであれ作品は多かれ少なかれ人の感覚に対して侵入的であるということが条件だと自分は考えていて、更に、今ちょっと調べてもわからなかったので非常に曖昧な記憶なんだけど、「O嬢の物語」の作者のポーリーヌ・レアージュがどこかで、夢の中で恋人を殺すなんて何ほどのこともないみたいなことを言っていたように、思弁的あるいは芸術的暴力というものはむしろ現実的暴力に拮抗したりそれを減衰させる力なのかもしれないと思っているからである。

さて、一部の絵に言葉を載せておいた。半透明の膜で貼ってあったのでサブリミナルにはともかくしっかりと気づいた方は少ないかもしれないが、それは次のような文(を英訳したもの)である、<往時、統べる者は巨大な体躯をしていた。彼らですら行く手を阻む風には難渋していたが、ついにそれを制御する術を覚え、以来彼らの肉体は我々弱き者と同様のものとなっていったのである。>

分かっているから作るのではなく、作るからわかるという側面の方が常に大きい。

しかも作ってもわからないことが延々とある。最近自分は人類史とか科学技術史に興味を持ち始めているのを意識していて、絵にこうした文を入れるに至り更にそうした興味が強化されているような気がするが、本当のところはよくわからない。

自分の中では常に既知と未知とがせめぎ合っている。 その接点のところに我々が作るものは位置している。そうして今「我々」と言ったように、これは自分に限らない普遍的なことなのだ。

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