知と愛

「頭は、いい」と言われることがときどきあって、「は」のところが少々気になるわけだが、そもそも頭が全然よくないことを十分承知している程度にしかよくないので、ことさらいいとは思わない。

しかし「は」というからには頭以外にどこか特に悪いところがあるはずで、誰もはっきり言ってくれないのは皆少しやさしすぎるか、あるいはむしろやさしさが足りないのではないか。理論的に類推するならばそれは、行動が伴わない、とか、人間心理を理解しないみたいなことかもしれないけどさ。

今みんな(自分も含めて)人にモノを言うことを、自主規制しすぎている。結局自分を守ろうとしていたり、めんどくさかったりするだけかもしれない。

もっとも人にモノを言うのが専門の仕事でない人にとっては、正当な理由としてそんなことしてる場合か、というのがあるんだろう。でもだからこそ、自分のソントクを抜きにして本心から人にモノを言うのは愛としか言いようのない行為なのだ。

「君には自分のものがある」、とある美術家の方が言ってくれたが、たとえ別の人に逆のことを言われたとしても、本心で言ってくれるなら大きな意味での愛の一種だと自分は思う。

という話を書いていて、なぜかヘッセの「ナルチスとゴルトムント」を思い出した。知と愛、これらは相反するものではない。慈しみというのは初期仏教では感情ではなく理性そのものとしてとらえる、と以前書いたけれども、自分が美しいと思う愛は、理性に基づく、あるいは理性を巻き込んで大きくなっていくような愛である。

考えに沿って素直に書くと難しい文章になる。頭があまりよくないことを、証明しているみたい。

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