失言と全体視

美術というものは原理的に、「全体視」や「客観視」という、人間にとってはなかなかハードルの高いことの実践を要請するものであると自分は思う。
だから鍛錬するのにかなり時間がかかったりもするし、また人に根本的には欠けているといっていい位のこれらのことに関わるという点で、チャレンジするかいがとても大きいものなのだ。

で、近頃、忖度や被災地についての発言に関連して政治家が次々と辞めるということが続き、この全体視のことを考えていたのである。
前後の発言を全体として見ると、自分が何派でだれそれさん命だとか、自分の過去の深刻な失言に言及して笑いをとったりとか、そもそもそういう話を本質的に政治家からは一切聞きたくはない。一から十までとは言わないまでも、哀しいかな一から九位までは、全然ダメ。有権者としては完全に無関係とも言えず、哀しさはいやまさる。

ところで以前勤めていた会社でデッサン演習というのがあって、なんと石膏像(ヴィーナス)を「ものを正しく見る」という訓練のために木炭で描く、ということをした。(当時の感覚では、ん~って感じだったけど、今だったら1000倍位楽しめるかも。)
「惜しい!他は完璧だけど、鼻だけちょっと低すぎますね」ということは厳密にはありえない。我々の存在というものは常に、かなり「全体」なんである。

ということは何を意味するのかと言えば、自分のなす一つ一つの事柄はやはり自分の「全体の一部」でありその一部は全体の鏡なのだから、心してやるべし、ということかしら。(失言を論じて結局自分へのハードルを上げたなり。)

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