幻想の身体

アレクサンダー・テクニークという身体技法があって、教師は生徒のからだに触れて筋肉や神経システムに働きかけ、より適切なからだの使い方を身につけることを助ける。長い間ついていたオーストラリア人の先生が最初の頃、私の喉仏の両脇あたりを触れながら、’This beautiful shape of neck…’と言った瞬間、私は首に「前側」があるのを理解した。背中側のテンションが高いので、前の意識が薄かったのだ。

生まれたてのころやごく小さかったときは、おそらく自分の首(やからだ全体)はひとつだったのだろうが、いつの間に分裂していったのか。おとなになった我々のからだに対する認識は、大抵の場合信じがたい程の欠落がある。認識の通り自分のからだの絵を描いたらすごいことになるだろう。欠落だけでなく認識の中で「足して」いる部分もあるし、「変形」させているところもある。その現実との齟齬の中には多分永遠に気づかないことも多い。

どろろという手塚治虫の漫画があり、からだの部分を奪った妖怪を倒すたびにその部分を取り戻す。幻想を打倒して肉体の真実とふたたびひとつになるということだ。例えば首に前側があるのに、気づくように。

しかし多少現実に近いことを認識できたからといって、安心してはならない。ここにもトリックはあって、前とか後ろとかがそもそも言葉である限り、それは現実と完全には一致しない。首のどこからが前でどこからが後ろなのか、明確な線が引かれている訳ではない。

自分はしょうがなく言葉で考えていることが多い。それに慣れているから。でも言葉のこの認識力・表現力の貧しさ、そのくせ制約したり方向づけたりする力の強さ、それにうんざりしているし、注意した方がいいと思っている。美術の周辺には多くの言葉があるが、美術表現の中核に言葉は、ない。

だから私は美術を、現実に近づくすべとして、信頼しているのである。

 

 

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