イチローの引退会見と言葉とアート

言葉と同じ土俵に乗らないために美術をやるという感覚が私にはあるが、そういう人は少なくないのではないかと勝手に思っている。

自分の場合、言葉の、「表現」する力に対する疑念というよりも、「制約」や「強制」する力に対する恐怖からという方が正しい。ピンクの象を思い浮かべるな、と言われても途端に脳内で見えてしまう訳だし、解剖学的に肩という独立した存在は規定しづらくそれは機能や動きとしては腕の一部に過ぎないとしても、肩と言われればそれが実質的にも存在するかのように感じてしまうとか・・・。そんなふうに言葉の持つ一種の呪術的な力によって、少しずつ少しずつ物の本体と認識がずれていき不正確なものが正確で実体的であるかのように感じられていってしまうのだ。

一方、というかそういう認識を持っているからなのか、言葉を見事に使っている人々を見るととても心を動かされる。

最近の例。イチローの引退会見における「人望発言」には泣けた。
彼は自分には人望がない(だから監督はムリ)と言ったのだが、この発言をもって彼が「人望」というものの定義をぐぐ~っと大胆に拡大していることは明確である(だってイチローに人望がない訳がない)。しかもその上で、彼ほどの求道者であれば確かにいわゆる処の人望に関連するものを捨象しなければならない場面があることもよくわかるのである。定義を拡げてそれでもわからせる、これってアートじゃないかしらん・・。

アスリートのアート発言(今勝手にそういうジャンルを作った)と言えばもう一つ近々の例がある。先日スケートのプルシェンコがテレビで、彼には一つ後悔があって現役の頃ある試合で「人に勝とうとしたこと」だというような趣旨のことを言っていた。これを聞いた自分はこの次に出る言葉が人ではなく自分に勝つ・・・みたいなことなのかな、と思ったのだが、あにはからんや彼は、人に勝とうとするんじゃなくて何のために滑っているのか目的に思いを馳せる、ということを言ったのである。人と自分、でなく人と目的というこの非対称性、これにも自分はグっときた。

一流のアスリートというのはスポーツという場で即ち常日頃から完全に現実というものに直面している。自分のメンタルをも含む現実を観察しその中で(アートとは違って)明確に定義された結果を得ることを訓練されているのだから、いつも「現場・現物・現実」。それがこうした言葉の重さの源泉なのではないかと思う。

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