アレクサンダー・テクニークをBody ChanceのJeremy Chance社長から長い間プライベート・レッスンで学んでいた。
最初の頃のレッスンで自分と対峙して立っている彼を見て、私は無宗教なのだがふと、「神」のようだ、と思った(後年彼に言ったら笑っていたけれど)。
要はそれまで、立っているとき、微妙であれもじもじしたり、ぐらぐらしたり、くにゃくにゃしたりしている人しか見たことがなかったのである。もちろん、自分で気づくか気づかないかはともかく誰もがその要請があってしているのだから、してはいけないというのではないが、たとえば立っているとき、立つということ以外の余計なことをしないでいることを「選択でき」、かつ「実行している」人間を見ると、自分の比喩では神しか思いつかなかったのだ。
世界的な舞踏家でベルリン在住のイムレ・トルマンに、彼が東京にいた頃習っていたこともあって、ある日レッスンの後喫茶店でひとりでお茶を飲んでいたら、突如自分の心身の中に、これまで一度も感じたことのない情緒を感じた。
それは「威厳」だった。もちろんいつもあるとは限らないが、とにかくある瞬間の心身のありように、それを感じたのは初めてだったのである。
アレクサンダー・テクニークのように歴史ある信用に足るボディ・ワークであっても、ボディ・ワークにおいてはすべてを「客観的に」語ることはできない。体験しなければ理解できないことがたくさんある。もしそうでなければ、ボディ・ワークがボディ・ワークたることの魅力も、意義も、ない。