カレーと絵画 

カレーの香りと、それが食べ物であることくらいは知っているが、実物を見たことも食べたこともない人が、あるときおいしいカレーを作りたい、と心底思う。その人はたまたまスパイスのことは知っていた。それでまずスパイスをお湯で溶いて飲んでみる。なんか香りから感じられるイメージとふくよかさが違う、そこでまた自分の知ってるものの中から、肉や野菜を足したりなんかして、更にはケチャップなども加えてみる。作ってるつもりのカレーは実際にはハッシュドビーフみたいになったり、とろみのないスープカレーみたいになったりする。その人はついにはとろみを出すという発想や材料にたどりつかないかもしれないし、途中でそれっぽくなったボルシチ方面に趣向変えするかもしれないし、五香粉と花椒で中華にしたり、あるいは度重なる失敗に腹を立ててカレー粉味焼き野菜でよしとするかもしれないし、とにかく自分の目指したカレーなるものが実現されるまで必死に執着し気づけば完全なる美味カレーを作ったりそれを超える次世代カレーの発明者になるかもしれない。場合によりカレーを作るのはあきらめ、スパイスの研究者になるという手もある。飽きてしまったり絶望を感じて結局の処カレー作りから手を引くというのもありがちなシナリオであろう。

というのが何かと言うと、知人が言った絵を描くことの例えである。絵を描く人は概ね、カレーの香りと、その本体がおいしいだろうことは知っている(よい絵画の価値、あるいはそのたたずまいみたいなもの)。ただ作家は常に自分のまだ見ていない作品を作る訳であって、実行においては結局総体からすれば極小かつ断片にすぎない知識を頼りに実験で調整・製造していくしかないし、構想から逸れてもいいし逸れなくてもいいという自由すぎる自由さの扱いが微妙だ。結局自由すぎるとき、初めて自分の絵に関する立場・方針というものの必要性が出てくる。それが自分で自分の絵を描いていくということかと思う。

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