ごく最近思い至ったのが、コラージュとは一種の流体技法であるということである。
糊で貼り付ける前なら、モチーフはいくらでも動かせる。描写的な技法が一瞬一瞬動作の軌跡を画面に定着させていくのと根本的に原理が違う。
私は美術をコラージュから始めてその後主には絵具を使った混合技法で、かつ絵具の流動体としてのふるまいを定着させるという関心で創ってきたが、どうしてコラージュからこっちに移行してきたか、自分でも今一つ理解できなかった。基本的には印刷物を使うストレートなコラージュは大きさやマチエール(質感)にある程度制約があり、その制約を逃れ、より自由を求めようとしたというのが仮説だったけれど、これも間違いでないにせよ実は流体への関心、という同じ軸の周りを回っているとも言える。
これに関し、世阿弥の風姿花伝の、初心忘るべからずという言葉を思い出す。私はこれを、始めにやっていたことは忘れなくてもいいよ、という風に解釈しているのであって、人間は変わるけれども変わらない、何かを捨てたり忘れたり、超克したりしようとしたりするが、元の自分には常に今の自分の予見があり、今の自分には常に過去の自分の名残がある。この名残はしぶとくて、種のようなものでもあり、また次の芽をふくときが場合によってはあるのではないかと、自分は期待しているのである。