視覚というのはクリアに保っておくのは難しくて、何がもっともその働きを干渉するかと言えば、おそらく言葉。
言葉の情報が入ると、脳の中の情報伝達が複雑になってしまうのか、そこにあるものが見えなくなったり、ないものを足して見たりするようになる。
先日長谷川等伯展を東京国立博物館に見に行って、スタイル、モチーフ、筆致等の劇的な変遷などかなり楽しんだが、彼の人生が素晴らしく簡潔に整理され示された説明を読みつつ見ていったら、いつの間にか微妙に「上昇志向の強いなかなかにアグレッシブな人の描いたアグレッシブな絵」というフィルターが目にかかっていた。
最後の松林図屏風。まずガラスに顔をくっつけるようにして見て「日本画で見たことない程、粗い!」とびっくりし、今度は後ろの壁に背中をくっつけて最大限のヒキで見ていきなり「霧」が出現しているのを見てもっと驚く。このことを等伯は必ずや視覚的トリックとして、人を驚愕させることを相当狙ってやったのだ。でも、なんら説明書きを読まずに見ていたら、どういう感想を持ったかしらん。
感覚のクリアネス。これは自分の人生においてかなり興味のある一大事なのだ。しかし常に言葉というものは、つっかかってくる。
それにしてもあれだけ距離を取らないと霧が出現しない絵を、等伯は物理的にどうやって描いたのかな。また自分が行った金曜夜の展示はとても人が多かったが、半分位の人が近くで見ただけで会場を後にしていた。すごくもったいない。