テープのり、テープかのりか

自分は文房具入れの引き出しにラベルを貼り、中に何が入っているかを分かるようにしている。
先日「テープのり」が使いたくて棚のところに行ったのだが、「テープ」と「のり」というラベルが別の引き出しに貼ってあってどちらに入っているのか迷ってしまった。
別に二つ開けてみればいいことであって(実際そうして結果「のり」のところに入っていた)、また今後迷いたくないということであれば両方の引き出しに入れておけばいい話で、大層な実害はないのだが、自分はこういう事象に遭遇するとなんだか頭の中がモヤモヤして、すごくヤなんである。

ゲルハルト・リヒターが絵を描くことは言語を使う通常の思考とは異なる全く別の思考の形態であるという主旨のことを言っているが、ふとそれを思い出す。自分の考えではこの立場を取ればテープのりはテープのりなのであり、現実のものを現実そのものとして受け止めるには、言語で文節されない認識の方法もまた、必要なのだ。
テープのりという存在は、純粋にテープでもなければのりでもない。血を出さずに肉だけ切れないように、テープとのりは分けられない。だから個々にラベルを貼った引き出しに分けて入れられないのである。それなのに現前としてテープのりというものが存在するという認知的不協和が、自分をどうしても不愉快にしてしまうのである。

ということで新たに「テープのり」ラベルを引き出しに貼ろうかしら。でもたかだか2,3個のストックに、新たに堂々たる一つの場所を与えるのもねえ・・。

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