赤ちゃんは「休憩」するか

あるデパートのエスカレーターに乗っていた私の眼に、天井からぶら下がっている案内板にあった「赤ちゃん休憩室」という言葉が飛び込んできた。その途端私の脳細胞は急に忙しくなった、これって赤ちゃん休憩室でなく赤ちゃんのお母さん休憩室ではないか、と考え始めたからである。

赤ちゃんどころか2 steps behind(未婚)である自分には検証するべくもないが、赤ちゃんは疲れたら眠ったりぐずったりするのであって、そんな風に生きていると休みは自然にとれているか取れないような状況であれば大変なことになっていると思われる。そういう生体がたまたまアクティブに活動していない状況を「休憩」とは呼ばないような気がしたのだ。

一方自分自身は、「休憩」をパソコンのアラームで管理している。

時間になると「鳥の鳴き声」で知らせてくれるよう設定しているのである。しかし折角ウソ鳥が鳴いてくれても、大抵が描き掛けの絵の進展度合いやメールの返信に気をとられてそのウソっぽいさえずりを無視し、故に夕刻前、予定のタスクの半分も処理しないうちにエネルギーが切れてしまう。

いずれにせよ「休憩」というのは意識的なもの。そしてそれは(大人の)人間が何事もやりすぎる、いきすぎる傾向があり、流れるように自然に生きていない(物事の今の現実に認知のリソースを適切に割き、都度都度ベストなやるべきこと、やらざるべきことが実行できていない)ことの、証左であろうと思われる。

意識的「休憩」を必要としない人、そういう人格を、自分はものしたいという野望を持っている。

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