空気は可視化できる

自分は整理整頓と掃除が大好きで、ミニマム1年に1回ぐらい自宅の大清掃キャンペーンを行う。ミニマリスト並に物を捨てまくり(なら最初から買わなければいいのに・・)、ドアの上の面とか冷蔵庫の扉の床に面した下側とかその他諸々、もはや名前も付いてない領域まで重曹やセスキシートで磨き上げてそのシートの多少の汚れを見て達成感にほくそ笑むという、少なくともこのキャンペーン(友達からは「遷宮」と呼ばれている)を実施している最中においては殆どビョーキである。

そして誰もが皆「空気は見えない」と思っているかもしれないが、私は「空気は見える」ことを知っている。

遷宮活動も終盤に近づき、様々な場所の埃の量が遷宮前の一千分の一以下になり、厳密に選別されつくしたものが然るべき場所に一分の隙もなくしっかり収まると、俄然、物と自分の間にある空気がはっきりとした視覚的/感覚的圧をもって出張ってくるのである。そうなる直前まではやっぱり空気って透明よねっ、ていう感じなのだが、ある瞬間を境に、空気の方がモノより目立ってくるのだ。

だから結局のところ見えないものも見えるようにできる。それを実現しようと目指すのが美術なのかもしれず、それは何かが「ある」ことでなく、取り去ったり失くしたりする、即ち「ない」ことで実現するのではないか、という仮説を自分は持っている。

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