差別は知識でなく動作である

文化的な差別(犯罪的なレベルではないという程の意)とそれに対する批判的言説について最近若干の興味がある自分だが、時々、あたかも、美術の領域で例えると、「色彩論理を勉強し知識として知っていれば即ち美しい色で絵が描ける」、と言う論が展開するのを聞いているかのような感じがすることがある。
差別は「知識」でなく「動作」だから、学びと実践、という側面があるので、そこまで単純じゃないはずだ。

自分の中にも誰の中にも、恐らく文化的な差別感情は無限にあるだろうし、あまりにバンバンと強く叩くような雑駁な論評がはびこると、何かを自ら「気づく」可能性まで、いくらか棄損していくように私は思う。

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